このタイトルを見て、もし僕と嗜好を同じくする人なら、何が原因で僕がこの記事を書いているのかを即座に理解することが出来るとは思うけど、まあ別に面倒事に足を突っ込む気は早々ないことだけは先に表明しておこう。
その存在が広く世間に周知され始めてから1年が経とうとするVtuber(バーチャルユーチューバー)だが、キャラクターと中の人の関係は度々話題になってきた。その度僕はそんなことどうでも良いから楽しもうという気持ちになっていたのだけれど、Vtuberの中の人の存在って、他のコンテンツに比べると特殊な関係性になっていて面白いなぁと思った。そこで1年ぐらい経った(正確には例のおじさんが出てから1年)今日に改めてVtuberの中の人の特異性(使い方合ってるか?)を論じてみようと思った次第だ。
色々な中の人
まずはこういったキャラクターを売りにしたコンテンツの中の人という存在について考えてみる。
最も馴染み深い存在で言えばアニメやゲームのキャラクターの声優としての中の人。キャラクターと声優さんはもちろん切っても切れない関係性にある一方で、その声優さんが変わることも往々にしてあるのが事実だ。
多くは長寿アニメに代表されるが、単純に声優さんが引退することを原因に代役を立てる必要がある場合や、アニメとゲームで単純な配役側の都合で演者が変わる場合がある。もちろん声優さんが変更になった場合は各所で違和感が囁かれるわけだけど、そのうち消える。というよりはむしろ〇〇版のキャラクターとしてどちらも対等に扱われていく場合が多くて、比較的中の人の交代は問題がないように思われる。
そして意外に見落としがちなのが、キャラクターの動きを決める、ライターとしての中の人だ。まあ僕がたまにプレイするビジュアルノベルとかADVで極稀に存在する悪い例の中に、マルチライターの場合に見られる共通ルートと個別ルートでの性格の乖離。これは結構難しい問題だと思う。
もちろんマルチライター体制を僕が批判する気は毛頭ないけど、たまに整合性が取れなくなるもの事実だ。これはADVで起きうる特異な話で、普通の小説だったら一つの物語に著者が複数人いることはほとんどない。だから、書き手が変わるというのはかなり重大事件だと思う。
もちろん、小説版と漫画版とアニメ版で描写が変わることを好意的に受け取れる作品もある一方で、全く別物だとか、劣化していると言われるものが話題になることも多い。実写化問題とかそういうやつだ。たぶん。
もちろんこれ以外にも沢山中の人はいると思う。3Dゲームや映画を始めとする映像作品にはキャラクターのモーションアクターとしての中の人だってそうだ。僕の知識ではこれぐらいしか出てこないけど、きっとキャラクターに携わる様々な人が中の人に該当するはずだ。
Vtuberの中の人の様々な側面
では、Vtuberの中の人は果たしてただの声優か?という疑問はどうだろうか。ここまで読んで頂ければ僕の意見は明らかだろうけど、Vtuberの中の人は声優でありライターでもあると思う。もっと言えばモーションアクターであるとも思うけど、個々のVtuberによって事情は違ってくると思う。
殊に生放送を中心として活動するVtuberはライターを兼ねる傾向が強い。動画であればもちろん台本通りに演じきる、という声優的側面が強まるという意味で、動画でも半ばライターを兼ねる存在は多くいると思う。
もちろんVtuberは自身に割り振られるであろうキャラクター性(公式紹介ページの設定に代表される)を維持しながら視聴者とのコミュニケーションを取るわけだが、大概のVtuberはキャラクター崩壊をしている。女子高校生設定のキャラクターにありがちなやつだ。一方でそのキャラクターが崩壊しつつも人気を博す存在が多数存在する現状を見るに、彼らは用意されていたキャラクター性に新たに中の人の文脈を書き足していて、それが愛されているという事実を知ることが出来ると思う。
果たして今人気の生放送中心のVtuberは、生身の人間のストリーマーとしてデビューしていても同じぐらい人気になり、そして同じ振る舞いをするのだろうか。はたまた彼らがもし違う見た目やキャラクターを背負って登場した場合、同じキャラクター性を付加しただろうか。そしてまた、もし彼らのデビューの時期が違う時期だった場合、どんな視聴者に影響され、どう振る舞うのだろうか。
こういう双方向的で即時的な対応がキャラクターと視聴者の間で執り行われることで、Vtuberは仮想でありながら身近な存在としてこの1年で普及したのではないのだろうか、と僕は思う。そういった意味で、Vtuberの中の人のことを魂と表現するのはかなり似合う表現だと思う。
キャラクターと中の人が切り離せない存在として
つまりVtuberのキャラクター、そしてその性格だとかキャラクター性というのは、恐らく中の人と視聴者がそのモデルに刻み込んできた色々なもの、歴史が表現されるものだ。Vtuberの振る舞いは間違いなく中の人ではない何かだけど、その大部分は中の人と視聴者が双方向的に作り上げてきたコンテンツだ。
もし中の人を変えたとしたらそれは、声優もライターも違う、同じ名前と見た目を持つキャラクターで、別物になってしまうと思う(パラレルワールド設定なら面白いが)。なによりそこで、それまで作られてきたキャラクターと視聴者の文脈が途切れることになる。それはVtuberの魅力であった双方向性をひどく損なう事件として刻まれるのではないだろうか。
おわりに
実際問題としてVtuberのモデル、特に3Dモデルは安くはない。それを動かし収録する環境まで考えると、恐らく個人で実現できるVtuberのクオリティーには限界がある。そういった意味でVtuberとそれを支援する企業の関係は切っても切り離せない部分があり、恐らく大抵の企業ベースのVtuberのモデルと収録環境は企業持ちである。中の人とその周辺の実際に運営している側と企業側の意見の不一致はかなり難しい問題だ。
そういった意味でこんな矮小なブログの中の人をやっている人が何か書いたって特に意味をなさないはずだけど、僕に出来ることは文章を書くことしか出来ないので、今回はこんなスレスレな記事(オタクのお気持ち表明)を書いた。でもきっとやらなければ始まらないので、この限りではない、ユーザー主体コンテンツへの企業の介入による諸問題がより良い方向に転ぶことを僕は祈っている。
今回はここまで。お読みいただきありがとうございました。
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